Library Book 1
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C’est si bon, Duo!
ふらんすに芸術祭創設の記 (1994/5)

*目次*
・巡り合い
・修復現場から
・イバラの道
・前夜祭
・もうじき、もうじき
・夏の夜の夢の音
・ふたりの夢が、いま
・ホール誕生
・ラ・トゥール・ド・バッシー音楽の夕

Vol. 1 巡り合い
*もとはと言えばあの電話
「君、次の便で至急フランスへ飛んでくれないか」というクリストファーからの長距離電話が、私たちの大冒険のはじまりだった。
鍵だらけで、アルカトラス要塞のように堅牢なロンドンの我が家の戸締まりも心急(せ)かるる思いで、万障繰り合わせて私はヒースロー空港へ急いだ。必要な手続きをみなすませ、いざ搭乗するばかりになって何ということなの、パスポートがない。・・・・・・

©1995 Yoko KATAYAMA  片山陽子

Library Book 2
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ブルゴーニュより一筆啓上
~ピアニスト夫妻の素敵な奮戦~  (1997)

*目次*
・魅入られて___音楽の捧げもの
・ラ・トゥール・ド・バッシー夜話こぼればなし
・旅のつれづれ
・楽の音は縁の端
・友愛のロンドは春風に乗って

 

Vol. 1 魅入られて__音楽の捧げもの
*ブルゴーニュの古い城
初秋の金色の光の中、晴れ渡った大空と同じにブルーのトラクターが、喜ばしい唸りをあげながら葡萄の取入れ真最中。等間隔に縦横まっすぐ、なだらかな丘に一面の葡萄の木が見事な格子模様を描くここマコネ側でも、すぐお隣のボジョレ地方でも葡萄農園の御主人たち、重い口振りはいつものようだが目がすっかり興奮して、今年のワインは飛切りおいしくなるらしい___。
・・・・・・

© 1997 Yoko KATAYAMA 片山陽子

Library Book 3
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¡HOLA  ARGENTINA !

アルゼンチン音楽探訪  ~ときめきのラテンアメリカ~
*目次*
・ようこそ、アルゼンチンへ!
・マヌエル・デ・ファリャ高等音楽院
・ベートーヴェン財団
・気鋭のプリンス、オラシオ・ラバンデーラ会見記
・7つの湖のフェスティバル ~パタゴニア便り~
・フルティヤール音楽週間 ~チリ便り~
・伝道師の贈り物 ~イエズス会とインディオの奇跡~
・ブエノスアイレス・キャンパスライフ
・テアトロ・コロン散歩
・炎のピアニスト、エルサ・ププロに訊く  Part1
・炎のピアニスト、エルサ・ププロに訊く  Part2
・キルシュナー文化センター ~シロナガスクジラの夢~
・素顔のヴィルトゥオーゾ、セルヒオ・ティエンポ
・歌手アリエル・アルディット ¡アルゼンチンタンゴは永遠に!
・ブエノスアイレス夜話
・奇跡の楽人、チャランゴ奏者ハイメ・トーレス
・優しき巨人、アコーディオン奏者ラウル・バルボーサ
・静かなる超絶技巧ギタリスト、ホアンホ・ドミンゲス
・マヌエル・デ・ファリャ終の栖を訪ねて  ~アルタ・グラシア紀行~
・アルベルト・ヒナステラ生誕100年
・麗しき恋の舞  ~民俗舞踊マリネラ&サンバ雑考~

・楽の音はえんのはし
・早春、タンゴフェスティバル
・休日のブルーノ・レオナルド・ゲルバー ~スペシャル・インタビュー(前編)~
・休日のブルーノ・レオナルド・ゲルバー ~スペシャル・インタビュー(中編)~
・休日のブルーノ・レオナルド・ゲルバー ~スペシャル・インタビュー(後編)~
・アルゼンチンの民俗音楽
・モーツァルテウム・アルヘンティノ
・旅のつれづれ
・“エル・システマ” ~ベネズエラの奇跡~
・ブエノスアイレス日々是熱烈
・ラテン・マジック

・・こちらもお読み戴けます・・
*孤高の天才舞踊家、フリオ・ボッカ  ~スペシャル対談 Part1 & 2~
*鬼才ネストル・マルコーニ ~孤高のバンドネオン~ スペシャル・インタビュー

*ピアニスト、ネルソン・ゲルナー ~ロマン派が1番近しい~ スペシャル・インタビュー

Jesuites

伝道師の贈り物
~イエズス会とインディオの奇跡~

クラシック大ファンの友人宅を久しぶりに訪ねると、美しいバロックの合唱音楽が流れている。
「さあて、これは誰が書いた曲? 何の曲? プロの音楽家の君なら然るべく・・」  
あらまあ、普段は申し分ないジェントルマンが歓迎プロトコルもすっ飛ばし、悪戯モード全開。
バッハ?  ヴィヴァルディ?  ミサ曲?  ・・・皆はずれ!
正解は作曲者不詳、ボリビア東部チキートス伝道所晩課の礼拝曲である。

遥かに17世紀初頭、“日の沈むことなし”と謳われた世界最強のスペイン王家の庇護のもと、イエズス会の修道士たちがカトリック教化の命を帯びて新世界へやってきた。 最初の伝道所は1609年ブラジルに、やがて現在のパラグアイの首都アスンシオンに学校ができ、ラ・プラタ川流域(現在のアルゼンチン、ボリビア東部、パラグアイ、ウルグアイ)のグワラ二―族の約30の集落で、
修道士たちは先住民族の生活様式を損なうことなく、彼らにヨーロッパ文明を伝えたのであった。

優れた音楽家、建築家であったスイス人イエズス会士マルティン・シュミット(1694-1772)の手紙(1744)に、 “~これらの伝道所で音楽教育を始めるよう指令があった。今ではすべての村に自分たちのオルガン、多数のヴァイオリン、杉材製のコントラバス、クラヴィコード、スピネット、ハープ、トランペット、ショーム(木管楽器。オーボエの前身)がある。 ここのインディオたちは生まれついての音楽家だ。聖ミサで彼らは毎日歌い、演奏して主を讃え、感謝を捧げている。 彼らの音楽は・・・あなた方を驚かせることだろう~”
シュミット修道士は神父の務めの傍ら、音楽学校を設立し、幾つもの教会を建て、インディオの人々にヨーロッパ音楽を手ほどきし、ありとあらゆる楽器の弾き方,その造り方、種々の手工芸から建築技術、農業の知識を伝え、辞書を編纂し、1767年のイエズス会追放令までその生涯をボリビアの伝道活動に捧げた。

伝道師はそれぞれ本国で高い教育を受けた人々である。イエズス会士の中で最も完成された音楽家とされるドメ二コ・シポリ(1688-1726. イタリア人)の作を含む10,000部近い宗教楽曲写本が、1972年に前述のチキートス伝道所及びモソス地方で発見された。 アメリカ、アジアのイエズス会布教史を通じて現存最大とされるボリビア・コンセプシオン・コレクションの楽譜の多くは、作曲者不詳である。 すべての芸術の源たる主への奉り物であったこれらの美しい音楽は、インディオの魂とヨーロッパの芸術がその最も高みで結ばれた尊い証しとして、流血の世界史の狭間に輝いている。

¡ 余談ながら !
1990年、ボリビア・サンタクルス県チキートスの6村、サン・ハビエル、サン・ラファエル、サン・ホセ、コンセプシオン、サン・ミゲル、サンタ・アナがユネスコ世界遺産に登録された。 各村に保存されている教会で、ボリビアの最も重要な文化行事とされるアメリカ・ルネサンス・バロック国際音楽フェスティバルが、1996年から2年毎に開催されている。
 

©2016 Yoko Katayama

Elsa Púppulo 

Elsa Puppulob

炎のピアニスト、エルサ・ププロに訊く  Part 1.

「素晴らしいピアニストがいらっしゃいます。 お会いになりませんか?」
その方のショパンの24の練習曲の演奏および講義を収めたDVDは、マルタ・アルゲリッチが特に推薦するものという。 ピアニストの名はエルサ・ププロ。 どんな方かしら? 逸る心を抑え抑え、釣瓶落としの夕暮れの道を大ピアニストのお宅まで急いだ。

「いらっしゃい!貴女もピアノ弾くんですってね、よかったわ!」
山盛りのサンドイッチと飲み物のメリエンダ(食事の合間の軽食)が運ばれ、手ずから取り分けて下さる。 お会いしたばかりでみるみる心がほぐれてゆくのは、音楽の縁結びの神様が舞い降りておいでに違いない。
居心地良く設えられた応接間の壁一杯に、ショパンやベートーヴェンの肖像画や写真。その少し奥にカワイのコンサートグランドとグロトリアン・スタインヴェグ・グランドピアノがある。
「アルゼンチンに入ったカワイ第1号よ。 弾いてみる?」
鍵盤が指に沿うように馴染み、温かく懐かしい音がする。
「ピアノを始めたのは7歳。 おもちゃのピアノをもらって、
弾いているうちにすっかり虜になったの」
ブエノスアイレスではヒナステラにも師事されるが、とりわけ
大きな影響を受けたのは、
「ホアン・フランシスコ・ジャコベ先生。 ピアノの演奏がどうというより、自分をしっかりと知ることを教わりました。 それは本当に役に立ちました。自己の把握は、あらゆることに不可欠の、実際の基点ですから」
そして渡欧。 フランスでイヴ・ナットに、イタリアでグイド・アゴスティの薫陶を受けられる。
「イヴ・ナットは、パリ音楽院に入るよりもご自身の個人授業を
薦められました。レッスンはご自宅かサル・ガヴォ―のスタジオ
で。全く無料でした。当時、先生はシューマンとベートーヴェン
の録音に打ち込んでおられました。きれいな白髪でがっちりした
体格、表情のとても温かい方だったわ」
エルサ・ププロの演奏は豪快で、些かのまやかしもない。その解釈には重ねられた研究と深い共感が伺え、凄まじいエネルギーが火の粉を散らす名人芸の向こうに現出する作品の宇宙は、これこそが唯一と感じさせるまでの説得力を持つ。 無心から流れ出る個性が躍動し、自在でスケールの大きいこのような演奏は、正しく19~20世紀の大演奏家の流れを汲むものだ。 現代の高速社会は、効率の高さ、正確さを厳しく要求する。 甚大な情報は絶え間なく私たちの自意識を刺激し、無心無我の芸術境への道は益々険しい。
「芸術に携わるには勇気が要ります。 私は人生にも同じ姿勢を当てはめてきました。 決して失敗を恐れないで。 失敗からこそ多くのことを学べるのですから」     ・・・次号へ続く。

©2016 Yoko Katayama

Jaime Torres

Jaime Torres

奇跡の楽人、チャランゴ奏者ハイメ・トーレス 

胸高に抱えた小さな楽器を激しく掻き鳴らすかと思えば、不思議な和声を沈黙の淵で見え隠れさせる如くに爪弾く。 総身に宿る自由絶対のリズム感。 その驚異的な技術才能は最早“演奏行為”のためにはあらず、己で自在の高みに遊ぶかのよう。 眼を閉じて、天を仰いでアンデス民謡を奏でるその顔に感謝に満ちた微笑みが浮かぶ時、まさに音楽の精霊の化身を見る思いがする。

チャランゴは、アンデス山脈地方で古くから親しまれてきた楽器。 音色や形がヨーロッパ伝来のマンドリンやビウエラを思わせるところから、16~17世紀頃、植民地時代のペルー、チリ、ボリビア高地で発祥かと言われる。
現代最高のチャランゴ奏者の一人に数えられるハイメ・トーレスは、1938年にアルゼンチン北西部サン・ミゲル・デ・トゥクマン生まれ。 質素な家具職人の家庭で、家族はケチュア語を話し、伝統の民謡を聴いていたという。  
「両親はどちらもボリビア人です。母が生まれたのはチリでしたが・・ 私は母のお腹の中にいる時からチャランゴを聞いていたのでしょう。 1937年当時のアルゼンチンでは、皆がイタリア語やスペイン語やいろいろな言葉で話していて・・北部にはトルコ人たちもいましたね・・ 両親は私が生まれて3か月の時にブエノスアイレスに来ましたが、私はそこで聞くボリビアの音楽が大好きでした」 
「私には伝統や慣習は大切な、尊いものです。貴方のお国では、すべての伝統が敬われますね。
ラテンアメリカには様々な民族が渡来し、一つの文化が別のものに取って代わる“発展”が無限に繰り返されました。 取って代わられた文化は戻すことはできません。チャランゴはその始まりにも謎の多い、古来土着の楽器です。 私がチャランゴを弾くのは、一つの深い社会的行為なのです」
時につぶやくように思いを内に込めて話される様子には、長らく“インディオの楽器”と疎まれ、激動の政情に揉まれながら、チャランゴの歴史を今日まで自らも生き抜いた重みが滲む。
演奏と作曲活動の傍ら、トーレスは自宅のあるアルゼンチン最北
部フフイ地方のマウアカで、土地の人々や子供たちのために、タ
ンタナクィ(ケチュア語で「出会い」の意)協会を主宰。
「図書館や映画館も提供していますよ。何もかも無料で私が組織しています。 もう40年以上になりますが・・なかなか大変です・・」
「何を表現するのか、聴衆に何を伝えたいかと問われることがありますが・・チャランゴは、ボリビアの高地に生きる人々が自分の心の内を託す、大切な同伴者です。このような楽器には、魂が宿っています。 楽器の生まれ来たるところの誇り、それを私は感じます。 私は “母なる大地”を謳う。私たちの音楽の真正な代表者となるよう努める・・ それだけです」

©2016 Yoko Katayama

Raúl Barboza

Raul Barboza

優しき巨人、アコーディオン奏者ラウル・バルボーサ

柔らかく流されたシルバーグレーの髪。限りなく穏やかな、殆ど恥じらうような語り口。
アルゼンチン北東コリエンテス地方の民謡チャマメを広く世界に紹介した名匠の、今夜はブエノスアイレスの小さなクラブでのコンサート。静かに気持ちを定め、そのがっしりとした体躯にアコーディオンが抱かれるや、鋼の軋めくような音の塊が乱れ飛ぶ。閃く赤い蛇腹。切迫するふいごの吐息。無心の楽器が、荒れ狂う未知の生き物と化した。

「音楽家というのは、ある空間を創造できる人、一つの物語を語れる人。緊張を作りだし、聴く人の集中を喚起できる人です。私は始めには演奏家でした。修練を重ねるうち、少しずつ音楽家になっていったのです」
アコーディオンは全くの独学独習という。
「どのように覚えたのか・・音楽学校などありませんでしたし、ただこれをやりたいという一心で、独りで研究しました」
7歳にして“魔術師ラウリート(ラウルの愛称)”と呼ばれ、10歳の頃にはラジオで演奏していた。
そして、当時は専ら踊りの伴奏に甘んじていたアコーディオンを、
「独立した演奏楽器として聴いて欲しいと思うようになったのです」
1963年頃、初めてのレコードを出す。
「売れませんでしたね。でも、私は自分の目標を変えはしませんでした」
踊り場の小さな仕事やタクシー運転手をしながらの生活は厳しく、1987年、妻と一大決心の末、フランスへ渡る。もう50歳になろうとしていた。
「誰も知らず、言葉も話せず、何もかも新しく始めましたが少しも怖くありませんでした」
やがて、パリでピアソラの知遇を得る。
「あの方は、殆ど見ず知らずの私のデビューのために新聞に推薦状を寄せ、コンサートでは最前列に座られて! 終演後、言葉も出ない私に、“根気があるなら・・君なら大丈夫”と言って下さった。ピアソラが私の初めてのレコードを買っていたらしいと、ずっと後になって知りました」
「留まるつもりはなかった」フランスにほぼ30年を過ごし、「タンゴを弾かないアルゼンチン人」は2000年5月、同国より芸術文化勲章を授与される。現在公演中の新企画“チャマメミュゼット”のCDは、3度目のシャルル・クロ大賞(フランスの権威ある音楽レコードグランプリ。1948年設立)に輝いた。
チャマメは、17世紀頃にパラナ河流域に定住していたグワラ二族が、悪しき力を払い、人々が自然と神々に強く結ばれることを願って行われた祭儀の音楽と踊りがその起こりと言われている。
バルボーサの両親はコリエンテス地方の人。お二人はグワラ二語で話されていたという。
「私にはインディオの血が流れています。私はそれを誇りに思い、魂に平和をもたらす音楽の力で人々の苦しみが和らぐよう、願いを込めて演奏するのです」

©2016 Yoko Katayama

Manuel de Falla

Manuel de Falla

マヌエル・デ・ファリャ 終の栖を訪ねて  
~アルタ・グラシア紀行~

その家は温かい陽射しを浴びて、小高い丘の一角に伸び上るようにして建っていた。こぢんまりと心地よい庭がぐるりを囲み、オリーブや松、エスピ二―ショ(アルゼンチンの主に北半分に生息するマメ科の木。棘がある)の木が往時のままに茂る。 “ロス・エスピ二―ショス”と呼ばれるこの家で、オペラ「はかなき人生」、バレエ音楽「恋は魔術師」、そしてあの美しいピアノと管弦楽のための「スペインの庭の夜」などで知られるスペインの天才作曲家マヌエル・デ・フャリャ(1876~1946)は、その孤高の生涯を終えた。 
 
1939年、ブエノスアイレスのスペイン文化協会から25周年を祝う記念コンサートに招聘されたフャリャは、妹マリア・デル・カルメンを伴ってバルセロナの港からネプトゥニア号に乗船し、アルゼンチンへ渡る。 戦雲覆うヨーロッパ、創作にも日々暗い影を落とす全体主義体制下で、敬虔なカトリック教徒としての自己の信条を貫くこと・・・生活の困窮と健康の不安を抱え、この謎に満ちた音楽家の、極限まで研ぎ澄まされた精神も肉体も疲れ果てたのだろうか。 手厚い待遇と終身の安全を保障するスペイン政府からのたびたびの勧誘にも動じず、彼は二度と生きて祖国へ戻ろうとはしなかった。

ロス・エスピ二―ショスから500メートルほどだらだら坂を下ると、フェデリコ・ガルシア・ロルカ公園に出る。 頃合いの石に一休み。 向こうのバイシクルモトクロスのコースで真剣勝負中の子供たちを眺めながら、1936年、内戦に至るスペインで、グラナダ鎮圧渦中に志半ばで非業の最期を遂げた詩人ロルカを思う。 そして、命を賭してロルカを理不尽な死から救おうとして果たせなかったフャリャの無念を思う。

アルタ・グラシアはブエノスアイレス市の北西740km, コルドバ地方シエラス・チカス山麓の谷あいの街。 空気の良い保養地として知られ、特に呼吸器の療治のためにテラスの設けられた家が多い。 ロス・エスピ二―ショスも、日当たりの良い北東に面してテラスがある。 眼前に柔らかい曲線を描いて広がるシエラス・チカスの山々。 それをグラナダのシエラ・ネバダに重ねて、フャリャは長い時間をそこで過ごしたという。
優しく光る薄桃色の空。 僅かに土埃のたつ小道。 頬を撫でる風の匂い。
それら全てがファリャの魂をはらんで、呼びかけてくるようだった。

©2016 Yoko Katayama

Bruno Gelber

Bruno Gelber

休日のブルーノ・レオナルド・ゲルバー
~スペシャル・インタビュー(前編)~

創建101周年を迎えるコロン劇場が3度目の修復中のため、コンサートが市内のあちこちへ場所を移して行われる中、ゲルバーがブエノスアイレス・フィルハーモニカと共演してブラームスのコンチェルト第1番を演奏した。 極上の絨毯のように部厚い独特の音色、1音1音少しの衒いもなく語りかける演奏は圧倒的な力で迫り、魂を洗い尽くすようだった。

暫くこちらに滞在されるとのことで会見をお願いしたところ、“こんにちわ、ブルーノですが”と何度もお電話をやりとりの後、とうとうマエストロのお宅へお邪魔することになった。
繊維関係のお店や問屋が立ち並ぶ賑やかな下町に、どっしりと古い石造りの建物。 玄関ベルを鳴らし、エレベーターのアコーディオン式の鉄扉を内側外側と開け閉めして最上階まで。 笑顔で差し出された、マシュマロのように柔らかいマエストロの手をそっと握って、早速お話を伺った。

片山陽子(以下K)・・・先日は素晴らしい演奏をありがとうございました。 ブエノスアイレスには時々お戻りになりますか?(氏はモナコ在住)
ゲルバー氏(以下G)・・・年に2回戻ります。
K・・・故里で演奏される時は、特別なお気持ちがされることでしょうね。
G・・・ええ、それはやはりね。 ちょっとやっかいな気持ちも・・。
K・・・やっかいなお気持ち?
G・・・ええ、ここの聴衆は音楽を詳しく知っています。 とても厳しいのですよ。
K・・・温かい受容性のある聴衆でもありますね。
G・・・そうですね。人々の反応は、国によってはもっと距離のある場合がありますね。 日本の人々は表情をあまり外に出しませんでしたが、彼らは異国の文化を学び、理解し、今では演奏会での反応も随分変わりましたね。 
K・・・マエストロはブエノスアイレスのお生まれで、ご両親が演奏家でいらしたのですね。
G・・・ええ。母は優れたピアニストで、父はコロン劇場のヴァイオリニストでした。 父は劇場にしょっちゅう連れて行ってくれましたし、母は家でピアノを教えていましたから、いつも音楽と一緒に過ごしていました。
K・・・お母様が、マエストロにピアノを手ほどきなさったのですね。
G・・・ええ。 母はヴィンチェンソ・スカラムッツァの弟子で、私が彼の所で勉強するようになったのもそうした経緯がありました。
K・・・マエストロは、まだ小さくていらっしゃったでしょう?
G・・・6才でした。 私の最初のコンサートは5才の時でしたが、ステージで沢山の人に演奏するのが嬉しくて嬉しくて・・
K・・・そのときの事、覚えていらっしゃいますか?
G・・・はっきりとね! 自分の服、母の着ていた服、ホールのこと、細かな事までみんな!
   それをスカラムッツァが聴いて、この子は演奏家になれるというので、教えて下さることになったのです。
K・・・スカラムッツァのもとで、13年間勉強されたのでした
ね。
G・・・彼は人体とか解剖学とか様々な広い知識の持ち主で、
烈しい人でした。
K・・・6才の小さな子供にはこわかったでしょうね。
G・・・母がスカラムッツァの人柄をよくわかっていましたから、間に入ってうまくゆくようにしてくれたのですね。 マルチータ(と、氏は親しみをこめて呼ばれた)・アルゲリッチとレッスンがいつも前後したので、互いに聞き耳をたてていましたよ。

燻し銀のような声音でゆったりと、マエストロのお話は続きます。

ラテンアメリカ¡ときめき!事情 ©2016 Yoko Katayama

Gustavo Dudamel      Photo Chris Christodoulou

Gustavo Dudamel

“エル・システマ” ~ベネズエラの奇跡~

ベルリンフィルの常任指揮者サイモン・ラトル卿をして、“クラシック音楽における世界で最も重要な出来事“と感嘆せしめ、ズービン・メータ、プラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッティ、ジュゼッペ・シノポリらが絶賛した気鋭の演奏家たちとは? 今、ベネズエラから______。

遡って30年あまり前。 ベネズエラの社会状況は悪く、麻薬や酒が若者達を蝕んでいた。貧困に苦しむ人々の生活を何とかしなければ______。 優れた音楽家で経済学者のホセ・アントニオ・アブレウ氏は、危険に瀕している子供達の窮状を訴えて政府と交渉し、救援プロジェクトのための国家基金援助を獲得した。 “エル・システマ”(正式名称「Fundacion del Estado para el Sistema Nacional de las Orquestas Juveniles e Infantiles de Venezuela 【国家基金によるベネズエラ青少年オーケストラ・国立ネットワーク】」)が設立され、現在、125のユース・オーケストラと楽器習得コースを監督し、15000人の音楽教師が活動している。

“エル・システマ”の教育方針は簡潔明快だ。 2歳の幼児でも、手に持つことができるなら楽器を与える。そして子供達が、組織に属する演奏グループに入ることに同意すると、レッスンや楽譜、必要な生活援助が無料で保障される。レッスンはグループで行なわれ、音階を幾つかでもマスターした者は、幼い後進たちを教えるよう委ねられる。 最初からオーケストラで弾く事が課目になっていて、子供達は週6日、1日に4時間、一緒に練習する。 仲間の温かい友情に支えられ、互いに励ましあって、音楽の純粋な喜びを自由に満喫できるこうした環境では、子供達の進歩は驚異的だ。10代始めで、ヨーロッパの大学合格に充分なレベルに到達する。 ベネズエラから次々に現れる若い才能に、世界が注目し始めた。 ベネズエラを長期訪問し、現地の青少年を指導した名匠クラウディオ・アバドは、“エル・システマ“に惜しみない賞賛を贈っている。

“エル・システマ”は、プロ音楽家養成機関ではない。音楽を通じてではあっても、あくまで子供達の援助を目的とした、社会改革事業である。設立以来、40万人にのぼる子供達を支援し、全国90の音楽学校に25万人の生徒が通う。その90%が貧困層の子供達だ。尊厳を奪う、孤独と悲しみの貧困から、意欲と共存と喜びのオーケストラへ。 

“エル・システマ”のもとで1975年に結成されたシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ(SBYO)を率いて、世界の桧舞台に躍り出た弱冠28歳のグスタボ・ドゥダメルは、今、最も熱い注目を集めている指揮者だ。 指揮をホセ・アントニオ・アブレウ氏に学び、既にシカゴ響、ニューヨーク・フィル、コンセルトヘボウ、イスラエル・フィル、ベルリン・フィルハーモニカーを始め多くの名門オーケストラと共演し、カーネギーホールやケネディセンター、ロンドン・プロムス出演ほか、SBYO音楽監督、ゴッセンバーグ・シンフォニー常任指揮者を務め、9月にはエサ・ペッカ・サロネンの後任としてロサンゼルス・フィルの音楽監督に就任した。 昨年12月、SBYOと初来日。ドイツ・グラモフォンから4枚のレコーディングがリリースされており、何れも絶賛され、数々の栄誉が贈られている。

ラテンアメリカ¡ときめき!事情 ©2016 Yoko Katayama

Juan Diego Flórez

Juan Diego Florez

ラテン・マジック

ラテンの人々は情が強(こわ)い。嬉しいにつけ悲しいにつけ満腔の情熱が燃え上がり、迸る喜怒哀楽は炎のようだ。絶えず揺らいで移ろう心の襞を、彼らは渾身のエネルギーで表現する。持って生まれた役者魂が、神様も虜にしてしまうような魔力を帯びる。

ブエノスアイレスのクラシック専門のラジオ放送局“アマデウス”から、ホアン・ディエゴ・フローレスの歌声が聞こえる。 輝く美声、油のように滑らかなレガート。優れたコントロールは余りに自然で容易で、豊かな感性が織り成す叙情の中に隠れてしまう。
ベルカント・オペラの第一人者として今をときめくフローレスはペルー出身。 1996年にロッシーニの生地ペサロを皮切りに、ミラノ・スカラ座、ロンドン・コヴェントガーデン、ウィーン・シュターツオーパー、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で次々にデビュー。 ロンドン・ウィグモアホール、ニューヨーク・カーネギーホール、ザルツブルグ・モーツァルテウムなどコンサートステージの活躍も目覚しく、“21世紀は、その一人目の偉大なテノール歌手を見出したといえよう”(英 /ガーディアン紙)、“何という風格!”(仏/ ル・フィがロ紙)、“現在最も完成されたテノール”(仏/ オペラNo36)と、各地で絶賛の嵐を巻き起こしている。

フローレスの父はペルー伝統民謡の歌手、ギタリストとして知られ、幼いフローレスもギターを手に、すぐに音楽に親しむようになった。 最初はポピュラー歌手になるつもりで、17歳の時にリマの国立音楽院に入学する。 母が切盛りするライブ・ミュージックの演奏を聞かせるパブで、ゲストが出演できない時は、彼が呼ばれて代わりに歌った。 次第にクラシックへの資質が顕著となり、フローレスは奨学金を得て、カーチス音楽院に3年間学ぶ。 そこで歌い始めたロッシーニやベリーニ、ドニゼッティのオペラは、他の追随を許さぬ彼のレパートリーとなった。 母のパブで、常連客のためにアンデス民謡からプレスリーまで歌った日々を、フローレスは「とても勉強になりました。しっかりと書かれたものは、ジャズもオペラもポップも、みな素晴らしい音楽ですから。」と振り返っている。

昨年夏、フローレスはメキシコのテノール、ロランド・ヴィジャソンとパリ・シャンゼリゼ劇場でジョイント・リサイタルを行なった。ヴィジャソンはフローレスより一つ年長の37歳。 ステージでの表情豊かな存在感、力強い声量は、“眩しく輝く新しいスターの出現”(英/ デイリー・テレグラフ紙)と期待を集めている。 ひょうきんで開け放しなヴィジャソン、はにかむような初々しさの覗くフローレス。陰影を宿すヴィジャソンの声、明るく晴れやかなフローレスの声。パリでのリサイタル後半、二人はボレロやタンゴ、マリネラなど、ラテンアメリカの歌をメドレーし、「ともに黒い巻き毛の」、「熱い血と有り余るカリスマを持つ」、「火花の散るようなデュオ」が、聴衆を「ヒステリー状態」の興奮に至らしめたと、ル・モンド紙が報じている。

本文を執筆中(10月4日早朝)、アルゼンチンの国民的歌手メルセデス・ソーサが亡くなった。タンゴやチャカレラ民謡はもとより、優れた歌唱力はジャンルを超えて賞賛された。 貧困や圧政に苦しむ人々を力強い歌声で鼓舞し続け、ラテンアメリカ全土で最も敬愛された歌手といえよう。 謹んでご冥福をお祈りしたい。 

ラテンアメリカ¡ときめき!事情   ©2016 Yoko Katayama

Julio Bocca      Photo Leo Barizzoni

Julio Bocca

孤高の天才舞踊家フリオ・ボッカ
~スペシャル対談 Part 1~

ブエノスアイレスのシンボル、高さ67.5メートルのオべリスコが聳え立つ共和国広場に設けられた野外ステージで、詰めかけた30万の大観衆の前で夜風に髪をなびかせながら美しく、端正に「マイウェイ」を踊って別れを告げた稀代の天才舞踊家フリオ・ボッカ。 40歳。 あれから9年。

アルゼンチン古今最高の踊り手と謳われ、20~21世紀の最も優れたダンサーの一人とされるその人に会いに、久しぶりの晴天を感謝しながら、世界最速のフェリー船という “フランシスコ・パパ”(58ノット)に乗り込んでラ・プラタ川をモンテビデオへ向かう。 ボッカは現在、ウルグアイ・ソドレ国立バレエ団(BNS)の芸術監督として多忙を極め、この日も韓国から戻ったばかり。
「コンクールの審査やレッスン、それからプロデューサーの方々と2018年のBNS公演を検討してきました。日本、上海へもお訪ねできるかもしれません」
ボッカはブエノスアイレス郊外の生まれ。母の手ほどきで4歳の時バレエを始め、厳しい練習を 「12時間でも」 少しも苦にならなかったという。 
「遊びのように思って、楽しんでいましたから。そう、僕は踊るために生まれてきたのでしょう!」
1981年にテアトロ・コロンの室内バレエ団に入団。 14歳で同劇場ソリストとして踊り始める。
18歳の時、モスクワ国際バレエコンクールで金メダルに輝き、ミハイル・バリシニコフからの有名な勧誘の言葉を受ける。 「アメリカン・バレエ・シアターのプリンシパル・ダンサーになって欲しい」
そしてニューヨークへ。
「当時は優れたダンサーたちが彗星のように活躍していました。プリセツカヤ、アリシア・アロンソ、ヌレエフ、バリシニコフ、ワシリエフ、マカロワ、カルラ・フラッチ・・彼らと一緒に踊り、レッスンを受け、公演を共にできたのは、僕にとってかけがえのない幸運でした。彼らの後に続くべく、彗星のしっぽを捕まえて! とりわけ崇敬するのはボリショイ(バレエ団)の大名手、ウラジミール・ワシリエフさん。  素晴らしい芸術家、その技量、相方として、人間として・・・僕のアイドルです。ブエノスアイレスへ度々来られましたよ。 僕は、多くの名手の頂点を実際にこの目で見ることができました。 それから彼らが衰えてゆくのも・・。 そうなるのは僕は嫌だった。だから、自分の最高の時に引退すると決めたのです」

ボッカほどのダンサーなら、世界のどの名門バレエ団の地位も望みのままだろうにと人は言う。
どうして彼はBNSを選んだのか。 次号へ続きます。

孤高の天才舞踊家フリオ・ボッカ
~スペシャル対談  Part 2 ~

ウルグアイ・ソドレ国立バレエ団 (BNS)は今年で創立81年。アルゼンチンのテアトロ・コロン・バレエ団(Ballet Estable del Teatro Colón。1925年創立)と共に、ラテンアメリカで最も由緒あるバレエ団で、1973年のクーデターから12年間の軍部独裁政権を生き延びて今日に至る。 2009年に、ウルグアイ一の設備と規模を誇るアデラ・レタ国立公会堂が新築され、現在のBNSの活動拠点となった。 2010年、フリオ・ボッカが芸術監督に就任。 
「この国には人々がバレエを愛する土壌があります。幸い、ウルグアイ政府の全面的な協力を得て、僕はすべて自由にさせてもらっています。 演目を選ぶのも、振付家との交渉なども」
年間90公演を行い、毎回ほぼ満席になるという。  
「公演数、レベルともに、今、ラテンアメリカでは最高でしょう。統計では、14公演で平均22,000人の来場でした。ウルグアイの人口が約300万、モンテビデオは100万少しということを考えると、これは大変なこと。 僕はバレエが大切にされて欲しい。だから、バレエが尊敬と愛情と、高いプロ意識をもって遇されるよう、努力するのです。クラシック・バレエ団は少なくなりました。僕にとっては1番美しいものであるクラシック・バレエの伝統と芸術を、次に伝えていかなければ」
「世界中で多くの優れたラテンアメリカのダンサーが活躍しているのに、ラテンアメリカ自体に本格的なバレエ組織がないことをいつも悔しく思っていました。 僕はBNSを世界で10指に入るバレエ団にしたい。そこが始まりとなって、続いていってほしい。 パリ・オペラ座バレエやロンドンのロイヤル・バレエのようにね。 そのためには毎日の練習と、団員たちのレベルの維持と向上を見守り、若い才能を育て、観衆を魅了し、国全体でバレエを盛り上げてゆくこと。 全国の子供たちが最高のバレエを見ることができるよう、地方の小学校へ訪問公演もします」
生まれて初めて、「ドン・キホーテ」や「コルセール(海賊)」や「ジゼル」や「コッペリア」を見て、
「子供たちは笑い出しました。だって、彼らは外の世界など見たこともないんですよ。ぴったりしたタイツ姿や、特別な動きにびっくりしたでしょう。でも3幕目ともなればもう夢中で、最後は大拍手をしてくれます。こんなに大きな目を見開いて! それは、私たちの心をとても豊かにしてくれます」
「ラテンアメリカでは、子供たちがバレエの練習と一般教育を同じ場所で受けられる体制が整っていません。実は4年前から、政府や企業に協力を要請して、ウルグアイの建築家カルロス・オット(パリのオペラ・バスティーユの建築家)に依頼し、クラシック、現代バレエ、民俗舞踊などと並行して一般学習もでき、遠隔地からの子供たちのための寄宿設備もある国立学校建設計画を進めています」
巨大なビルの図面を見せてもらいながら、未曽有のスーパースターの座から一転、全霊を次代のバレエのために捧げるボッカのひたむきな情熱に、どんな時にも夢と希望に溢れ、その国土のように途方もなくスケールの大きなアルゼンチン魂を確かに見る思いがした。

©2016 Yoko Katayama

Nestor Marconi

Nestor Marconi

*スペシャル・インタビュー* 
鬼才ネストル・マルコーニ  
~孤高のバンドネオン~

華麗なテクニック、格調高い演奏で聴衆を魅了するネストル・マルコーニ。 時には一晩に2つのコンサートを熱演し、現代バンドネオン界の重鎮として後進の指導にも東奔西走のマエストロを、数多くのタンゴの名曲を生んだブエノスアイレス・アルマグロ地区にある「タンゴの家(Casa del Tango)」へお訪ねした。 


片山陽子(以下K)・・今日はお忙しい中をありがとうございます。このあとすぐ、リハーサルがおありですとか・・
マルコーニ氏(以下M)・・今、ブエノスアイレス・タンゴ・オーケストラと、エミリオ・バルカルセ・タンゴスクールオーケストラの指揮を務めていて、コンサートの70%が指揮の仕事です。 それから私が結成したアンサンブルも2つありまして。
K・・バンドネオンは独学でいらっしゃるそうですね。
M・・ええ。 一人で本を見ながら、このボタンは何の音、
と、一つ一つ覚えました。  
K・・バンドネオンをお始めになる前に、ピアノを弾いていらっし
ゃったとか。
M・・7つか8つくらいの時から、先生について習っていました。
K・・クラシックのレパートリーを?
M・・はい。ですからバンドネオンの勉強も、タンゴでも民謡でもなく、べートーヴェンやモーツァルトの曲でね! バンドネオンで弾けるようになった初めての曲は、ショパンのワルツでしたよ! そのうちにあちこちのアンサンブルで弾くようになり、並行してピアノも続けていたのですが、父も望みましたので、バンドネオンに転向したのです。
K・・作曲も早くからなさっていたそうですね。
M・・9歳くらいから始めました。バッハ、ベートーヴェン、メンデルスゾーンなどの多くのピアノ作品を、自分でバンドネオンのために編曲しました。

弱冠16歳でプロ・デビュー以来、氏は、オラシオ・サルガン、ロベルト・ゴジェネチェ、アントニオ・アグリら多くのタンゴの伝説的名匠始め、広く様々な分野のアーチストと数多く共演されている。
K・・マエストロは、映画に出演(カルロス・サウラ監督映画「タン
ゴ」。1998年度カンヌ映 画祭技能グランプリ受賞及び同年ア
カデミー賞、ゴールデングローブ賞ノミネート作品)なさっ た
り、ダンスの名手ホアン・カルロス・コペスさんとのコラボレ
ーションや、ギドン・クレメル、ダニエル・バレンボイムさん
らクラシックの演奏家との共演など、ご活動は本当に多彩でい
らっしゃいます。
M・・チェリストのヨー・ヨー・マさんと、ラテンアメリカ各地、米国、日本にもご一緒して演奏しましたし(共演のレコード「ソウル・オブ・ザ・タンゴ」は、1999年度グラミー賞受賞)、3年前の別府音楽祭で、マルタ・アルゲリッチと沢山演奏しましたよ。私が書いたピアノパートを彼女が弾いて、私はちょっと即興で・・。2台ピアノとバンドネオンの曲もありました。
K・・日本にはもう何度もいらっしゃっていますね。
M・・はい。 1973年にフランシー二・ポンティエ楽団のメンバーとして訪ねたのが最初です。全国をまわりながら60回ほどのコンサートをしました。 演奏と移動の連続で、かなりハードだったなあ!
K・・アストル・ピアソラと録音なさった時のことをお聞かせ下さいませんか?
M・・ああ、バンドネオンを象徴するような人・・。 ピアソラの指揮で、「狂人のバラード」や「ブエノスアイレスのマリア」などを録音しましたが、彼は指揮だけで、一緒にバンドネオンを弾く機会はありませんでした。 ピアソラは偉大な音楽家で根は良い人でしたが、皆といつも喧嘩して・・。 とても気性が激しく、物議をかもすことがしょっちゅうでした。

K・・ピアソラの“ヌエボ・タンゴ(新タンゴ)”は、最初は大変な
スキャンダルを巻き起こしたそうですね。
M・・タンゴにエレクトリックギターを導入するなどして、伝統派からは随分批判されました。最終的には、彼はいつも自分のクインテット様式に戻ってきましたね。ピアソラの音楽は、渡欧後も根本的には変わらなかったのだと思います。
K.・・マエストロは、コンサートでいつも即興なさいます?
M・・ええ、必ず。 その日、その時の気持ちによっていろいろにね。 前もって何か決めておくことはありません。 1つのパッセージでも2回目はいつも変わります。
K・・共演のアーチストの方々と、ステージで即興を楽しまれる
ことも?
M・・もちろん! 音楽は楽しむためにあるのですもの!
K・・即興はバンドネオン演奏の大事な要素ですね。
M・・そうですね。 私自身は即興の訓練はしませんでしたが、
自然にできるようになりました。
K・・ご自身の作品には、演奏者が忠実に再現できるように、
詳細 まですべて書きこまれるのですか?
M・・いいえ。 演奏者が自分のアイディアを盛り込んで下さって良いのですよ。
K・・バンドネオンの最も顕著な特質は何でしょう?
M・・楽器の持つ独特の音色や、タンゴの表情によって使い分ける
いろいろな効果でしょうね。 バンドネオンの音色はアコー
ディオンとは随分違います。バンドネオンは熱っぽく甘やか
で、ノスタルジックな楽器だと思います。 ふいごのシステ
ムで、音を引き伸ばして途中から強めていくといった、ピア
ノではむずかしいようなこともできますね。 
K・・バンドネオンを勉強する世界の若人たちに期待なさいます
ことは?
M・・ブエノスアイレスには今、20~35歳くらいの年代層にとても良い演奏家が沢山います。若い人たちには、ピアソラや私のスタイルを模倣するのではなく、それぞれが自分自身の何かを見つけて、発展させていって欲しいですね。
K・・それこそ最も骨の折れるところですね。
M・・そうですね。でもそうでなくては、タンゴが発展していくことはできないのですから。

マルコーニ氏のレパートリーは1000曲以上にものぼるという。 
「何しろタンゴが好きですから」 そう言うと、肩をすくめてはにかむように微笑まれた。

*スペシャル・インタビュー*  鬼才ネストル・マルコーニ

©2016 Yoko Katayama

Nelson Goerner

Nelson Goerner

*スペシャル・インタビュー*
ピアニスト、ネルソン・ゲルナー  
~ロマン派が1番近しい~

北半球なら3月頃___。9月のブエノスアイレスはまだまだ肌寒い。コンサートのため帰郷中のネルソン・ゲルナー氏にお話を伺った。

片山陽子(以下K)・・お忙しい中をありがとうございます。今回
は2週間足らずのご帰国だそうですね。 
ゲルナー氏(以下G)・・はい。 短い期間に数回のコンサートや
打ち合わせがあり、それに家族や友人とできるだけ多く一
緒に過ごしたいので飛び回っています。 帰国した時はいつ
もですが・・。 (氏はスイス在住)
K・・ブエノスアイレスでは2度のコンサートでしたね。 
マスタークラスは?
G・・あまり頻繁にはしませんが・・ 日本では、2008年に別府のアルゲリッチ音楽祭で行いました。
K・・若いピアニストたちにとって、マスタークラスを受講する
のは素晴らしい経験ですね。
G・・尊敬するアーチストの前で演奏すると、自分の最高のもの
を発揮できることがあります。賞賛の気持ちは、自分の思い
込みさえ変えさせます。また、教えることは、自分には未知
のことや様々な問題に直面することで、私自身を大変豊かに
してくれます。
K・・母校ののジュネーヴ音楽院で教えられるそうですね。
G・・はい。授業を始めることになりました。 
K・・同じ場所でかつて、高名なマリア・ティポ先生のクラスで
勉強なさったのでしたね。
G・・はい。1987年に初めてヨーロッパへ留学するにあたり、
アルゲリッチのアドヴァイスを受けて、ティポ先生に教わ
ることになりました。
K・・どのような授業だったのでしょう?
G・・クラスの8人の生徒を、先生は息子のように可愛がって
下さいました。母性的な方で、独占的でもありました。
コンサートで大変忙しい方でしたので、レッスンは月1回
だけ。最初は随分戸惑いましたが、一人で研究することを
学びました。それまでアルゼンチンでは、スカルシオーネ
先生に細かく教えて戴いていましたから。
K・・スカルシオーネ先生は、素晴らしいピアニストでいらっしゃったそうですね。
G・・スカラムッツァの愛弟子でした。先生は音楽だけではなく、
人生のあらゆることについて話して下さり、本当に多くのこ
とを学びました。それぞれの生徒の人格を理解し、尊重する
方でした。コンサートのご経験も豊富で、ステージで演奏
する際の実際的なアドヴァイスも沢山戴きました。
K・・アルゲリッチさんとお会いになったのはどのように?
G・・コンクール(1986年リスト・コンクール)の準備をしている時に、10分ほど演奏を聴いて戴きました。 リストのバラードを弾きました。 アルゲリッチの演奏を、14年ぶりにアルゼンチンに帰国された時まで聴いたことがなかったので、3つのコンチェルトの演奏をコンサートで聴いて、強烈な印象を受けました。
K・・リスト・コンクールでは、17歳で見事優勝なさいました。
リストは今もお好きな作曲家ですか?
G・・ええ、好きです。ショパン、シューベルト、ブラームスなど、ロマン派が自分に1番近しく感じられます。 2番目にバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン。ドビュッシー、ラヴェルも大好きです。
K・・1990年のジュネーヴ・コンクールでも優勝なさっています。
G・・有意義な経験だったと思います。コンクールに参加するこ
とは、特にピアニストには義務といってよい位、必要でしょう。
K・・コンサートのプログラムはどのように組立てられるのでし
ょうか?
G・・毎年、2つ半のプログラムを用意します。 練習中の曲と、
先方から希望される曲をバランス良く組み合わせるように
します。自分のあまり共感できない作品は、やはり充分に
良い演奏ができないように思います。それから、常に新曲を
勉強することが私には必要です。
K・・新しい曲はどのようにお選びになりますか?
G・・長い間考え、想像をめぐらせていた曲の中から、自分に
演奏できるという、謙虚ではあっても確信が持てるように
なったものを取り上げます。いつ、何を弾くかを知ること
が大事ですね。

ピアニストの奥様とデュオのコンサートもなさるゲルナー氏。GOERNERと綴るお名前の発音をお尋ねすると、「グウェルネル」と滑らかで深みのある美しい響きが返ってきた。

*スペシャル・インタビュー*  ピアニスト、ネルソン・ゲルナー 

©2016 Yoko Katayama